残念だった。
思わず、口からこぼれてしまった一言は、まるで司馬遼太郎作「竜馬がゆく」、近江屋事件のくだりですな。
シカシナガラ。
何しろ、人物が坂本竜馬ではなくハンサムで上品な中年紳士です。脳に達する刀傷を負ったのではありません。
今年(2020年)の4月、新型コロナウイルス感染症による自粛ムードの中、一軒のコーヒーショップがオープンしました。
コクのある美味しいコーヒーを出してくれるお店です。
オープン前には、札幌市内で食パンとコーヒー豆の販売イベントなども行っていました。
そこでコーヒーのドリップパックなどを買うと、「新店舗がオープンしたらコーヒー1杯と引き換えられます」というチラシを配っていたのですね。そのチラシをずいぶん貯めていました。おそらく、そのお店では一生ただでコーヒーが飲めるくらいには貯まっていたはず。一年に一度くらいの利用ならば。
先日、7月のある暑い日、たまにはチラシのコーヒーショップで冷たいのを飲もうと思い立ちました。勤め先の近くですから、テイクアウトして持ち帰れば(同じことか)店内での蜜を避けることができます。そう、蜜の近くに座っていると季節によってはスズメバチが飛んできて肝を冷やしますから。
じゃなくて、避けるのは「密」か。
注文を済ませて支払いの段になって、コーヒー1杯とのお引換券を取り出すと、店員さんの表情がくもりました。その口から出てきたセリフは、
「申し訳ございませんが、このチラシの有効期限は6月末日までなんです」というものでした。
言われて初めて気がついて、チラシの下のほうをよーく見れば、本当だ!
小さな目のフォントではあるけど、ボールド書体で書いてありました。
「この店では一生ただのコーヒーが飲める」という目論見が外れた瞬間、足元から世界がガラガラと音を立てて崩れはじめ、奈落の底に飲み込まれる刹那、冒頭のセリフが口をついて出てきたのです。
「残念だった」と。
そして、「ああ、損した、せっかくただでコーヒーが飲めたのに、ああ損した、損した!」と、その場で泣き崩れました。
と書いたら、いくらなんでも大袈裟ですね。本当にそう感じたのだと書けば真っ赤なウソになる。
こんなことなら、もっと何度もチラシでコーヒーを飲むんだった、と悔やんだのは本当です。
損したなあ、とも思ったのも本当です。
期限があると気づいていたなら、毎日でもただのコーヒーを飲んだのに、と思ったけど、そうもできなかっただろうと思ったのも本当です。
貴族的な顔立ちの割にみみっちい性格で、二枚目なのに気が弱い中年紳士であります。
いくらなんでも、毎日のようにチラシを持ってきてただのコーヒーをせしめていたのでは気が引けますし、何よりも「あの中年紳士はハンサムだけどケチかもしれない、しかし仮にケチだとしても人格高潔な風情がある」と思われるんじゃないかと心配でなりません。
夕方のスーパーで、買い物カゴに確保した商品にタイムセールのシールを無理矢理貼らせるような強靭な神経をもった人たちが羨ましいです。羨ましくはあるけども、あやかりたくはないかな。
ケチだけども紳士的で、気が弱いけど二枚目ですから。
この記事へのトラックバック
この記事へのコメント