オリンピック開会式の演出について

先日、「オリンピック開会式前のパフォーマンスはいらない」と書きました。あんなモノは前座です。あくまでも選手たちと競技が主役。パフォーマンスなんて、所詮は前座です。前座のくせにいつまでも舞台で調子にのっているんじゃない! 実際のところ、あれが楽しみだ、あれが面白いという人が何人くらいいるのか?

ああいう前座パフォーマンスを創る人は、いわゆるアーティストと呼ばれるセンセイたちで、しかもたいていは斯界の一流ドコロでしょう。だから作品に対して批評をしにくい。仮に「オリンピック開会式ではこんなことをしますよ!」と実行委員会にプレゼンしたところで、プレゼンされたほうも苦情が言いにくい。世界的なセンセイ様の作品に対して難癖をつけるワケにはいかないし、そんなことをしたら自分たちの芸術的理解力のなさがバレちゃいますからね。

センセイ様たちの作品であっても、市場で評価される場合は、まだいい。どんなに前評判が高くても、世間的にはまったく受けない、興行成績は散々だった、制作費の回収もままならず大赤字、なんてこともよくある。

世間的なウケが悪いから芸術作品として劣る、ということでもありません。しかしセンセイ様たちも、赤字になったり評判を落とすのは避けたいから、そこそこ世間ウケしそうなものにするでしょう。

ところがオリンピックの前座の場合は、そういう心配はいらない。面白くないからといって、会場から出ていく人もいない。苦情をいうにしても、開会式の後だ。せいぜいがSNSにリアルタイムに「つまらん」と書き込むくらいの抵抗しかできない。その抵抗も、ブルドーザーに節分のマメをぶつけるほどの威力もない。前座興行は始まっちゃってますからね。その間にもセンセイ様たちの前座パフォーマンスは、全世界に向けて発信されちゃうんです。

しかも後から苦情を言われようがけなされようが、センセイ様たちの腹も懐もちっとも痛くはない。なにせ経費は親方日の丸の税金負担ですからね。あれの前座を廃止するだけで、どれくらいの予算が浮くことやら。それをまっとうに有効に使えば、どれだけ国が豊かになることやら。

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