超一流になるのは才能か努力か?(アンダース・エリクソン)
超一流のアスリート、超一流の演奏家、超一流の科学者、超一流の……。彼ら彼女らの「超一流」の技術は天性の才能によるものなのか、それとも血の滲むような努力の結晶なのか。
結論を書けば、もちろん答は「努力」です。生まれながら持っている才能や特性とは、たいていのスポーツで有利に働く「背の高さ」くらいのものだそうです。もっとも、いくら「努力」(具体的には「練習」という形で行われるのだが)が大切であるとは言い条、そのやり方が間違っていてはなんにもなりません。
妻はピアノ教師をしています。ピアノを習いに来ている子どもに「家に帰ってからも練習しようね」というと、まず十人が十人、課題曲を何回か通して弾くだけで終わるそうです。ところが、これでは練習したとはいえません。単に通して弾くのではなく、自分の苦手なところを繰り返して弾く「部分練習」が必要で、その際も指使いやそのタイミングなどを意識して練習しないと意味がありません。
スポーツでいえば、チームに分かれてゲームをするだけではうまくならないのと一緒です。ボールを投げたり打ったりしてもらって、それを受け止める練習をしないと上達はしないでしょう。
しかもそれらの練習は、技術的体力的な限界を少し上回る程度の負荷をかけないと効果がでません。さらに練習をするにあたって、目標についての正しいイメージを持っていないといけない。
これを本書では、「限界的練習」と「心的イメージ」と表現しています。
正しい心的イメージに向かって、限界的練習を繰り返すことでしか超一流の技術は育まれないのです。
逆に言えば、正しい心的イメージをもって限界的練習を積み重ねることで誰もが超一流になれる、かもしれない。
少なくとも、超一流に近づけることは間違いないでしょうし、限界的練習をする前の自分よりは確実に上達しているに違いありません。
この記事へのコメント
海
なかなか興味深い話題ですね。
もちろん才能も重要ですが
努力に勝るものはありませんよね。
それと「運」もあるかも。
モータースポーツとかは、裕福な家系に生まれなければ
そもそも競技を続ける事自体、難しいです。
スポーツだとフィギュアスケートとかなんかも
同じような印象を受けます。
それと、「良い指導者に恵まれる事」ですね。
話は横道に逸れますが、大学の体育の授業で
「100メートルの自己ベストを更新する」というのを
習いました。まず最初にみんなで走るのですが
早い学生もいれば、私のように遅い学生もいまして
各自がいったん自分のタイムを記録します。
その後で、先生からフォームとか走法(?)なんかを
習ってから、再度走ると、私含め、みんな自己ベスト更新!
ちゃんと教わると、こうも違うのかと驚きました。
しろまめ
コメントありがとうございます。
正しいフォームを身につけるだけで、全然違うんですね。
ところが一般的な体育の授業では、そういうことはほとんど教えられません。
少なくとも、ぼくは教えてもらった覚えがない……自信ないけど、聞いてなかっただけかもしれませんが。
でも体育の授業のほとんどが、「ちゃんとやれ」とか「一所懸命やれ」という根性論と「全員の動きを揃える」という軍隊運動的なことに費やされていたような気がするですよ。