みんな天才とか才能とかが大好きなんだね

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アンダース・エリクソンの言う通り、超一流になるには「才能」なんていう曖昧なものをあてにしていてはダメです。努力あるのみ。具体的には「正しい心的イメージをもった限界的練習」しかありません。
そんなことは、みんなわかっているはずなんですけどね。

それなのに、世間の人々は「天才」を待ち望んでいるのでしょうか? 物語などには時々、「天才的な◯◯」が登場します。「天才的ピアニスト」、「天才的な外科医」、「少年ながら天才的な探偵」、「天才的なバ◎ボン」。
物語作者にとって、「天才的な」存在は都合がいいかもしれません。主人公は常識的にはありえないような能力を発揮するんだけど、それは「天才」だから。
ただ「天才だからなんでもあり」、では面白みが欠けます。
だからたいていの場合は、「天才には天才なりの苦労とか事情とか苦悩もある」として、それを丁寧に描くことでリアリティというものを演出していますけどね。

作者がそういう意図で天才的な登場人物を描きますので、受け手(読者とか視聴者とか観客とか)も、「この人は天才だから、難しい曲をすぐに弾きこなす・難しい手術も失敗皆無」などと納得できます。

では、こうしたフィクションとは離れたケースではどうでしょうか?
それこそ、超一流のアスリートや演奏家に対して、「天才」と手放しで称賛することがありませんか?
あるいは「超一流」とまではいかなくとも、身近な人のなにか優れた能力や技量に対して「才能」のひと言で片付けてしまってはいませんか?

世間の人が、「天才」とか「才能」などの言葉を喜ぶには理由があります。
あらゆる能力や技量は、才能の有無が決定的だと考えることで、自分を守ることができるからです。

Aさんには◯◯の才能がある。だから、〇〇ができて当たり前。
でも、自分には才能がない。だから、◯◯できなくても仕方がない。

Bくんの成績がいいのは天才だから。勉強しなくてもテストでいい点数が取れるんだ。
でも、ぼくは天才じゃない。勉強しても、テストで点がとれない。それは仕方ないよ。

でも、Aさんは間違いなく限界的練習を積み重ねてきています。
Bくんも毎日々々、コツコツコツコツと勉強をしていますよ。

才能のせいにしてしまえば、優れた人を過小評価できます。
同時に、才能のせいにしてしまえば、できない自分を正当化できるんです。
こんな便利で素晴らしいものはありません。
自分の成長を止めてしまうという副作用はありますけども。

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