終わりに見た街(山田太一)
偶然に書店で見つけて買いました。もちろん、カバーにある大泉洋ら俳優陣の写真が目を惹いたのです。が、実はこれ、カバーじゃなくて、幅の広い帯なんですよね。通常のカバーの上からかぶせてあります。
通常のカバーだったら、きっと気づかなかったでしょう。いやあ、まんまと出版社の戦略にやられました。でも、買ってよかったです、面白かったですもの。本もテレビドラマも。
なにしろ、1981年から1944年、つまり終戦の前年の世界へ家族で家ごとタイムスリップするという設定に驚きました。たいてい、タイムスリップというのは個人単位ですもの。まあ、児童と教員が小学校の校舎ごと未来へ漂流する漫画はありましたが……。え? もしかして、それがヒントになってる?
ドラマ化にあたっては、タイムスリップする起点を1981年から現代(2024年)へ変更されています。そりゃそうだ、今となっては、1981年が大昔なんですから。
スタート時点で、「なんか黒いハンドル掴んでひとりでしゃべってるシーン、意味不明なんですけど」とかなりかねません!
主人公は当然戦後の生まれです。なので原作にはない主人公の母を、当時の体験者として配しています。こういう点も上手い。ただ「高齢の母=認知症気味」というのは、ややステレオタイプかな。
本作で肝になるのは、ひとつには『戦時下にタイムスリップしても、敗戦という結果を知っているだけの存在でしかない自分になにができるのか?』
主人公は、東京大空襲の犠牲者を少しでも減らそうと躍起になりますが、そう簡単には行きません。
しかももうひとつ、ややこしい問題が発生します。
戦後世代であり日本の敗戦という歴史を知っているはずの「現代っ子」たちが、戦時下の日本での暮らしを通して、戦時思想に染まっていくところです。
若い世代はかくも洗脳されやすいのか、と読める場面ですが、ぼくには彼らの主張を覆す自信はありません。
「みんなが力をあわせて頑張っているのに、自分だけが賢いつもりか?」とか、
「国のために命を捨てる人を笑うのか?」こういう言葉で責められると、なかなか反論しにくいですよ。
そもそも、自分たちがタイムスリップしてきたことで、すでに歴史は変わっている。
だったら、敗戦という結末が変わらないと、どうして言い切れるのか?
しかし「面白い」とは言い条、ラストはトラウマレベルのバッドエンド。
映画『猿の惑星』を思わせる絶望感であります。
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